出世を諦めた高校教員のブログ

公立高校教員をしていますが、嫌気がさして30代にしてこれからの人生は余生と自覚した人間のブログ。

教員に「社会人経験」は必要か

よく、教員は世間知らずだと言われる。

そのためか、多くの自治体では民間企業での勤務経験がある人向けの採用を枠を設けている。

 

世論も、学校を出てそのまま教員になった人間(ストレート教員と呼ぶ)より、民間企業での働いた経験を持つ教員(社会人教員と呼ぶ)のほうが優れているという認識であろう。

 

先に結論を言ってしまうようだが、教員として優秀であることと社会人経験は関係ない。

 

現在は、多様性を受け入れることが重視されているのだから、様々な人材を登用するべきであるし、色々な人が居たほうが組織に良い影響をもたらすとは思う。

 

そういう意味では、学校を出てすぐに教員になったという経歴の先生ばかりでは駄目である。

しかしながら、どんな仕事でも、経験がものをいうことはあるだろう。

 

同い年で教員経験が10年の教員と、社会人経験があるが教員としては1年目の先生と、同じ働きができるだろうか?

 

思い返してみると、社会人経験があろうがなかろうがキチガイ教員はいるし、優秀な教員もいる。

そこに相関関係があるようには思えないのだが・・・

 

私は一発合格した人よりも2年採用が遅いが、社会人経験がないからストレート教員でいいだろう。

 

そんな私から見て、社会人教員なかでも一番ウザイのはやはり社会人経験をひけらかしてくることである。

 

 本人には悪気がない。それはよくわかるのだが、いちいち「民間ではこうだった」を持ち出されてはかなわない。

教員の仕事は異常に非効率的なことがある。民間企業では考えられないであろう。

しかし、教員は公務員でもある。民間企業で当たり前のことでも、公務員ではできないこともある。

 

だいたい、「社会人経験」という言葉が気に食わない。

教員や公務員は社会人ではないないような響きがある(そして実際そう思われているだろう)。

 

以前、教員ではないのだが、非正規職員で某大手メーカーを定年まで勤めあげたという方が教員の補助として入ってきたことがある。

その方から学ぶことは実に多かった。このような人ばかりなら、我々ストレート教員は歯が立たないであろう。

 

実際はそんな人は稀で、民間企業をドロップアウトした人も多い(本人談だから実際のところ分からないが)。

 

教育実習の申し込みをしてきた教職課程の学生も、「一度社会人経験を積んでから・・・」などとのたまう。

こんなことを言うやつは恥を知るべきである。

 

民間企業は当然ながら、将来的には会社に利益をもたらしてくれる人材にするために、新入社員を育てているのだろう。

教員に転職する社員を快く送り出してくれる素晴らしい会社もあるだろうが、脱サラして教員への転職を考えている人は、企業は「社会人経験」とやらを積むために会社のカネで社員教育をしたわけではない、自覚するべきだ。

そもそも、入社試験で志望動機を聞かれて「社会人経験を積んで教員になるためです」なんて言うわけないよな?

 

どう考えても、社会人経験があることは教員として優れている保証には全くならないことは明らかである。

 

今の時代、全員ストレート教員では駄目なことは間違いない。しかし、社会人経験がありゃいいってもんでもない。

いろんな経験、いろんな特性を持った教員が自分の強みを生かして、連携して教育に当たることが、生徒の利益になるのではないだろうか。

 

 

 

教員志望で大学院に進学する必要ある?

公立学校の教員志望であえて大学院に進学する意味はあるだろうか(私立は知らん)。

私のように採用試験に受からず進学するのではなく、一発合格する実力があるのに教員になるためのステップとして「あえて」である。

 

経験上、ない。

 

かくいう私も大学院(修士)を出ている。したがって所有する免許は専修免許だ。

では、専修免許を所有していてよかったことは何か。

 

経験上、ない。

 

残念ながらこれが現実である。

専修免許を所有していても給料は増えない。

正確に言えば、多少増えるかもしれないが、生涯賃金で考えると数年早く就職したほうがよっぽど高い。

 

配属で優遇されることもない。

修士どころか、博士号を持っているのに指導困難校に配属された同期もいた。

 

中には、いきなり進学校に配属されるケースもある・・・

が、たまたま空きがあってそれが埋まらなかった場合に限られているように思う。

 

結論として、給与面、待遇面ではほとんどインセンティブがない。

 

では、実際の職務の中で何かメリットがあるか?

 

ほとんど、ない。

 

私が通っていた教育系の大学院では、学級崩壊や問題行動の事例研究をさせられた。

それは、理想と現実のギャップを埋めるのには多少役に立ったかとは思う。

だから「ほとんど」だ。授業力や学校運営能力には全く寄与していない。

 

 

しかしながら、私は学歴が評価されないことを一概に非難すること気持ちにはなれない。

高等学校とは「高度な普通教育」を施す場であって、大学でするような「研究」を指導する場ではないからである。

多くの高校では、教科書の内容を生徒に理解させることが基本であって、教科書を超えるような内容を指導できないと生徒がついてこないような学校は圧倒的少数だ。

また、教科書に載っていない内容を教えることが教員の腕の見せ所だと考えるのも間違っていると私は考えている。

 

近年では「探究」科目の登場や、一部の進学校では研究まがいのことをやるようになっているので、そのような場では活躍の機会があるかもしれない。

それも、配属されたらラッキー程度の話である。

 

純粋に学問を追求したいのであれば、修士課程でも博士課程でも行けばいい。

学問に対して愛着がある先生に教わることができる生徒は幸せだ。

しかし、公立学校教員になろうとする者が「学歴」を拠り所としたり、それによって何らかの利益を得ようと考えることは自他ともに不幸になるのでおすすめしない。

なぜ教員になったのか

私は、なぜ教員になったのだろう。

 

教科がばれると嫌なのでぼかすが、私が専門とするのはおそらく多くの人が「役に立たない」と切って捨てる分野である。

 

大学は教育学部ではなく、その「役に立たない」と言われそうな分野で4年間、勉学に勤しんだ。

といっても、一般的な文系大学生であり、人並みにバイトやサークル活動に精を出し、決して本気で取り組んだとは言い難いのだが・・・

 

大学はそれなりに楽しかった。時は流れてあっという間に就活の時期を迎えた。

当時は今ほど就活の開始時期にうるさくなく、3年の夏くらいからインターンに出かける学生も多かったと思う。

 

なんとなく過ごしてきた私は、就活にもそれほど力を入れるわけではなく、適当に終活をしたが、運よく2つの会社から内々定を得た。

リーマンショック直後の不況期だったので、運がよかったのかもしれない。

 

そのような状況の中で、私の中にある想いが沸き上がった。

 

「このままでいいのだろうか」

 

遅れてきた厨二病、もしくは内定ブルーなどと言われる状況であろう。

今の大学生からは考えられないだろうが、当時は大学三回生のうちに多くの生徒が就職先を決める状態であった。

私も決して早くはなかったが、四回生の四月にはすでに内々定を得ている状況であった。

 

ここで教員免許を得るにあたって避けられないイベント、教育実習があった。

イベントなどと言うと多くの現職教員は怒るだろうが、実際多くの教育実習生は教員になる気はないのだから実のところイベントである。

 

私も教員になるという意思は正直、なかった。親の助言で、教職課程を履修していただけである。

この時教職課程を履修していなければ今日の地位はなかったわけだ。親には感謝せねばなるまい。

 

私は多くの学生と同じように、母校の高校で実習をさせていただいた。

先生方は親切で、生徒たちはみな愛想がよく、実習生に対して好意的で、授業が下手でも文句を言わない。

そして、授業に、部活に、学校行事に一生懸命取り組む生徒を見て、大いに感化されてしまうのである。

 

これだ。

 

と思ってしまったのだ。しかも、教員になれば大学で学んだことを生かせるではないか!

私が教員になった理由など、この程度である。昔から強い意志や熱意を持っていたわけでは決してない。

しかし、そこからの行動は意外に早かった。

親を説得し、私は折角得た内々定をあっさりと断り、教員採用試験に向けて勉強を始めた。

 

現実は甘くない。

 

結果を言うと、教員採用試験の一次試験すら突破できなかった私は、またも親を説得し、脛を齧って大学院に進学するのだ。

実際に教壇に立ったのは教育実習から三年近く経ってからである・・・

幸い採用試験に合格できたからよかったものの、危うく院卒ニートが誕生するところであった。

 

教員になって10年経つ。未だ教育実習で教えた生徒たちより優秀な集団には遭遇していない。

私の母校は決してトップ校ではなかった。それでもこうなのである。

教員免許を取ろうとする人は学業優秀な人が多い(おそらく本当に優秀な人は教員にはならないだろうが、それはまたの機会に)。

母校で教育実習をすると、教えるのは当然、それなりに優秀な生徒たちである。

この体験を持って、教員を志すのは相当に危険である。

もし教育実習で感化されて教員になろうとしている方がこれを読んでいるなら、今一度考えてもらいたい。

学校でよい成績を修めることや、大学受験をモチベーションにできる生徒は全体のうちほんの一握りである。

 

たまに、底辺校(この言葉を教員が使ってはいけないが、他に表現のしようがないので使う)から頑張って教員になったという人がいる。

そのような人は本当に立派である。人間は雰囲気に流される生き物だ。

周囲が必死に勉強していれば自分もするし、勉強そっちのけでバイトや恋愛に精を出してれば自分もそうする。

底辺校というのはまともな大学に行っている人間からすると想像を絶する世界である。

そのような環境から努力して採用試験に合格した人のほうが、組織や生徒に良い影響を与えると思うし、生徒の心情もよく理解できるだろう。

 

じゃあお前はどうなんだ?という声が聞こえてきそうだ。

私には色々な矛盾がある。変説も著しい。そんなの、十分認識したうえで、これを書いているのだ。

ほっといてくれ。